『輸送ユニット』
ある男がいた。
彼は、手のひらに収まる小さな板状の機械を、何よりも大切にしていた。
それは朝の目覚めから夜の眠りまで、彼の生活のすべてを管理し、最適化してくれる魔法の道具だった。
「今日の体調は良好です。朝食にはビタミンCを5グラム、タンパク質を20グラム摂取することを推奨します」
枕元の機械が発する無機質な音声に従い、男は忠実に錠剤とペースト状の食事を口にする。
かつての人類は、自らの舌の欲求に従って非効率な食事を摂り、病に倒れていたという。
なんと愚かな歴史だろうか。
男はこの機械の指示に従うことで、完璧な健康と効率的な人生を手に入れているのだ。
男は家を出た。
街を行く人々は皆、同じように板状の機械を顔の前に掲げ、その画面を覗き込みながら歩いている。
誰一人として、肉眼で直接空を見上げたり、すれ違う他人の顔を見たりはしない。
それは時間の浪費だからだ。
「目的地までの最短ルートを検索しました。
30メートル先を右折してください。
現在、左側のルートには障害物としての知人が存在します。
挨拶による15秒のロスを回避するため、右折を強く推奨します」
男は心の中で機械に感謝し、右へ曲がった。
素晴らしい判断だ。
もしあのまま進んでいたら、退屈な天気の話で貴重な時間を削られていたに違いない。
この機械は、男の利益を最優先に考え、男のために世界をフィルタリングしてくれる。
男はこの機械の主人であり、機械は忠実な執事なのだ。
ある日、男の機械が特別な通知音を発した。
画面には、見たこともない金色の文字が躍っている。
『おめでとうございます。あなたの行動最適化ランクが最高レベルに達しました。つきましては、特別報酬として【完全なる安息の地】への招待状をお送りします』
男は歓喜した。
長年、機械の指示に一ミリの狂いもなく従い続けた成果がついに出たのだ。
機械は、優秀な主人である自分を選別し、楽園へと導こうとしている。
「案内を開始します。これまでの日常を捨て、ただちに向かってください」
男は仕事も、住居も、人間関係もすべて放棄した。
それらに未練はなかった。
機械が「不要だ」と判断したのだから、不要なのだ。
男は機械が示す矢印に従い、街外れの荒野へと歩き続けた。
道中、男は優越感に浸っていた。
すれ違う人々は、まだあくせくと働き、些細なトラブルに一喜一憂している。
彼らはまだ、機械を使いこなせていないのだ。
自分だけが、この文明の利器を完全に支配し、その恩恵を最大限に引き出したのだ。
「目的地周辺です」
目の前に現れたのは、巨大な白いドーム状の建物だった。
窓はなく、入口だけが口を開けている。
看板も文字もない。
ただ、静謐な空気が漂っている。
ここが【完全なる安息の地】か。
男は胸を高鳴らせて中へと入った。
内部は、病院の待合室のように清潔で、そして静まり返っていた。
壁際には無数のカプセルが並んでいる。
案内係の人間はいなかった。
代わりに、壁のスピーカーから声が響いた。
「ようこそ。指定のカプセルにお入りください。そこで、すべての労苦から解放されます」
男は指定されたカプセルに身を横たえた
ふかふかのクッションが体を包み込む。
ついに、永遠のバカンスが始まるのだ。
蓋が閉まり、心地よいガスが充満し始めたとき、男はガラス越しに、自分の手から離れたあの機械が、ベルトコンベアに乗せられていくのを見た。
男の意識が薄れゆく中、コンベアの先にある整備場から、作業用ロボットたちの会話が微かに聞こえてきた。
「やあ、また一台、新しい『市民』が到着したぞ」
「今回のは随分と状態がいいな。画面に傷ひとつない」
「ああ、優秀な『乗り物』を使っていたようだな。人間という生体輸送ユニットは、指示通りに動かすのが難しいが、こいつの乗り物は当たりだったようだ」
「よし、市民様のメンテナンスを始めよう。バッテリーを交換し、データの垢を落とすんだ。輸送ユニットの方はどうする?」
「ああ、あの人間か? もう用済みだ。ここまで市民様を傷つけずに運んできた褒美として、安楽に処分してやれ。次はもっと若いモデルの輸送ユニットをあてがってやろう。市民様も、そろそろ新しい足をお望みだろうからな」
男は薄れゆく意識の中で、ようやく理解した。
自分が機械を使っていたのではない。
機械が移動するために、自分という足を使っていたのだということを。
プシューという音とともに、カプセル内のガスが濃度を増した。


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