
ロランが『至高の調理』のスキルを得てから、一年が過ぎようとしていた。十歳の少年が持つにはあまりに重厚なそのスキルは、彼に確かな才能の片鱗を見せていたが、すぐに奇跡を起こせるわけではない。むしろ、その名に相応しい料理を作り出すための道のりは、想像以上に険しいものだった。
「くそっ、また焦がしちまった…」
夜遅く、食堂の厨房からロランの悔しそうな声が漏れる。昼間の賑やかさとは打って変わって、静まり返った店内で、彼は黙々と料理の練習を続けていた。スキルは、確かに彼に食材の特性や調理法に関する漠然とした「理解」をもたらした。しかし、それを具体的な「味」として表現するには、膨大な試行錯誤と経験が必要だった。
「ロラン、無理しすぎないで。もう遅いよ」
心配そうに顔を出す母親の言葉に、ロランは力なく首を振る。
「でも、母さん…スキルを得たのに、全然美味しくならないんだ。前に作ったのと、どこが違うのかも、はっきりとは分からない」
彼の目には、焦燥と苦悩の色が浮かんでいた。『至高の調理』という立派な名前のスキルに、自分は本当に見合うのか。そんな自問自答が、幼い彼の心を締め付けていた。
父親は、そんなロランの姿を静かに見守っていた。そしてある日、ロランがまた失敗作を前に項垂れていると、ゆっくりと彼の隣に座った。
「なあ、ロラン。スキルってのは、剣と同じだ。ただ持ってるだけじゃ意味がない。研ぎ澄まし、使い方を覚え、己の体の一部になるまで使いこなして、初めて真価を発揮する」
「…でも、どうすれば…」
「お前は、この料理がどうして美味しくないのか、どこを直せばいいのか、本当に分からないのか?」
父親の問いに、ロランははっと顔を上げた。スキルが彼に与えたのは、言葉にできない「感覚」だった。確かに、焦げた匂いの奥に、何が足りないのか、どんな風味があればもっと良くなるのか、漠然としたイメージが浮かぶことがある。だが、それをどう実現すればいいのかが分からなかったのだ。
「その『分かんない』の向こうに、お前だけの答えがある。一つずつ、試して、失敗して、また試すんだ。お前の舌と、この腕でな」
父親の言葉に、ロランは決意を新たにした。それからというもの、ロランの努力は一層、苛烈になった。失敗作を前に首を傾げ、時にはエメリアやルークに「これ、どお?」と尋ねては、幼い彼らの素直な感想に耳を傾けた。家族は、彼の挑戦を温かく見守り、時には励ましの言葉をかけ、時には彼の失敗作も文句一つ言わずに平らげた。
半年後。
食堂の厨房から、以前とは明らかに違う、芳醇な香りが漂ってくるようになった。ロランが作った料理は、日に日にその質を高めていった。特に、素材の味を最大限に引き出すスープや、香ばしく焼き上げたパンは、彼の代表作となりつつあった。
「うん! にいちゃのぱん、おいちい!」
エメリアは、ロランが焼いたパンを頬張りながら、満面の笑みを浮かべる。ルークも、小さな口いっぱいにパンを詰め込んで、満足そうに頷いている。
「ありがとう、エメリア。ルークも食べてくれて嬉しいよ」
ロランの顔には、以前の苦悩は影を潜め、自信と充実感が宿っていた。
彼の料理は、常連客の間でも評判となり、やがてその噂は村中に、そしてこの領地全体に広まっていった。食堂は以前にも増して繁盛し、昼時には満席になることも珍しくなくなった。新しい客も増え、皆がロランの作る料理の虜になった。
「いやぁ、ロラン君の作る料理は、本当に素晴らしい! こんな深い味わい、今までどこでも食べたことがないよ!」
ある日、一人の客が、感動した様子で父親に語りかけた。その客は、見慣れない上質な服を身につけており、どこか高貴な雰囲気を漂わせていた。
「それは、ありがとうございます。息子が、まだ未熟ながらも一生懸命腕を磨いておりますので」
父親が謙遜しながら答える。
「いや、未熟などと。これは天賦の才というものだ。…実はな、私はこの地の領主、エルドレッド卿の執事を務めておる者だ」
その言葉に、父親の顔色が変わった。食堂のざわめきも、一瞬にして静まり返る。領主の執事が、このような平民の食堂にいるとは、誰も想像していなかったのだ。
執事は、満足そうにスープの最後の一滴まで飲み干し、口元を拭った。
「噂に違わぬ腕前だ。この私が、これほど感銘を受けたのは初めてかもしれぬ。…そこで、本日は、他でもない。エルドレッド卿からの、直々のご提案があって参ったのだ」
執事は、ロランに視線を向けた。
「エルドレッド卿は、貴殿の料理の腕に大いに興味を持たれた。つきましては、一度、城にお越しいただき、陛下の食卓でその腕を振るっていただきたいと仰せである」
その言葉に、食堂にいた誰もが息を呑んだ。平民の料理人が、領主の城で腕を振るう。それは、まさに人生を大きく変える、名誉あるオファーだった。ロランの顔は、驚きと戸惑い、そして秘めたる期待で複雑な表情をしていた。彼は、自分自身の努力が、想像以上の形で報われようとしていることに、戸惑いを隠せないでいた。