静寂が、ある女性の生を包み込んでいた。
部屋には、長年愛用してきた古びた木製のベッドと、その上に丁寧に畳まれたパッチワークのキルト。傍らには、ページを閉じられたまま置かれた一冊の文庫本と、使い込まれた老眼鏡。どれもが、彼女の生きてきた時間の重みを静かに語っていた。
窓の外では、夏の終わりを告げるような夕焼けが、空を燃えるような茜色に染め上げていた。どこからか、遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。それは、彼女が愛し、守り抜いてきた日常の音だった。
星野 葵 (ほしの あおい)、90歳。
彼女の人生は、特別なものではなかった。ごく一般的なサラリーマンの家庭に生まれ、年の離れた妹と、両親に囲まれて育った。妹とは喧嘩もしたが、いつも互いを思いやる姉妹だった。父は厳しかったが、その裏には深い愛情が隠されていることを、彼女は知っていた。母は朗らかで、いつも家族の中心にいた。
学校を卒業してからは、町の図書館で司書として勤めた。本に囲まれた日々は、彼女にとって最高の幸福だった。古い書物の匂い、紙の擦れる音、そして物語の世界に没頭する人々の静かな熱気。それらすべてが、彼女の心を潤した。司書という仕事は、派手さはないかもしれないが、知識を求める人々の手助けをすることに、彼女は大きな喜びを感じていた。時には、子供たちが目を輝かせながら絵本を選んでいる姿を見るのが、何よりも癒しだった。
結婚はしなかった。一度だけ、真剣に考えた相手がいたが、結局は縁がなかった。それでも、後悔はしていない。人生には様々な選択肢があり、彼女は彼女なりの幸せを見つけていたからだ。趣味は読書と、時折訪れる旅だった。日本各地の古い図書館を巡り、その土地の歴史や文化に触れることは、彼女にとって何よりの楽しみだった。旅先で出会う人々との短い交流も、彼女の人生を彩る大切な思い出となっていた。
晩年は、妹夫婦や甥姪たちが頻繁に顔を出すようになった。彼らの屈託のない笑顔を見るたびに、彼女は心から満たされた。特に、ひ孫たちが図書館で借りてきた本を嬉しそうに読み聞かせにくる時間は、彼女にとって至福の時だった。彼女の穏やかな性格は、周囲の人々にも好かれ、地域の人々からも「葵さん」と親しみを込めて呼ばれていた。
しかし、時間は容赦なく流れていく。90年という月日は、確かに長かった。体は少しずつ自由を失い、記憶も曖昧になることが増えた。それでも、彼女の心は常に穏やかで、最期まで尊厳を失うことはなかった。
「おばあちゃん、大丈夫?」
枕元に座る甥の娘、美咲の声が聞こえる。美咲はもう立派な大人になっていた。彼女もまた、葵と同じように本が好きで、よく図書館に遊びに来ていた。
「ええ…」
葵は微かに微笑んだ。喉がひどく渇いていたが、それさえもどうでもよかった。目の前が、徐々に光に包まれていく。
「…ありがとう…みんな…」
最後の言葉は、かすかにしか聞こえなかっただろう。それでも、葵の心は感謝で満たされていた。
たくさんの人々に囲まれ、たくさんの物語を読み、たくさんの経験をしてきた。後悔はない。しかし、もし次があるのなら。
(…次は…もっと…)
もっと違う生き方をしたい。もっと、自由な生き方を。今までとは違う、新しい世界を見てみたい。
そんな強い思いが、葵の意識の最後の光景を彩った。
光が満ち、意識が遠のく。