第43話. 両親の胸騒ぎ

その夜、食堂の仕事が終わり、子供たちが寝静まった後、トーマスとエルアラは夫婦の寝室で向かい合って座っていた。ランプの柔らかな光が部屋を照らし、二人の顔には一日の疲れが滲んでいたが、その瞳の奥には、ある共通の不安が宿っていた。
エルアラが、意を決したように静かに口を開いた。
「トーマスさん…エメリアのことなんだけど」
トーマスは、読んでいた帳簿から顔を上げ、妻を見た。
「ああ、エメリアか。本当に働き者で助かるよ。鍛冶屋の方でも、ダクレスが随分と信頼を置いているみたいだしな」
トーマスは、娘の成長を喜ぶ親の顔をしていた。しかし、エルアラは首を横に振った。
「そうじゃないの。その…この間、裏庭の古い椅子を直した時のことなんだけど…」
トーマスは眉をひそめた。「ああ、あのグラグラだった椅子か。エメリアが触ったら急にしっかりしたって言ってたな。まあ、子供の力で偶然そういうこともあるだろう。きっと埃が詰まって、それが動いて…」
「偶然なんかじゃないわ」
エルアラの声は、いつもより少しだけ厳しかった。
「私、あの椅子をずっと見ていたのよ。もう何年も使い古されて、ガタが来ていたのに、エメリアが手を当てた途端、本当に信じられないくらい、ぴたりと安定したの。まるで、何かに固定されたみたいに…あの子、道具なんて、何も使っていなかったわ」
トーマスの顔から、笑みが消えた。妻の様子が、ただの気のせいではないことを物語っていた。
「それは…しかし、椅子の修理なんて、今まで見たこともないやり方だ…」
「それにね、トーマスさん。あの食堂のL字金具のことも思い出してちょうだい」
エルアラは、さらに言葉を続けた。
「あの金具も、あの子が『こうすればいい』って言った通りにしたら、信じられないくらい頑丈になったでしょう? それから、ミーア鉱のこともそうよ。ダクレスさんは、エメリアのひらめきのおかげだって言うけれど、あの子の言う通りにしたら、あれほど頑固な鉱石が、まるで魔法みたいに形を変えるようになった。ただの炭の粉と、変わった水に浸しただけで…」
トーマスは、黙って妻の言葉を聞いていた。彼の脳裏にも、疑問の欠片が、次々と繋がり始めていた。確かに、L字金具の強度、ミーア鉱の信じられない加工性。それらはすべて、エメリアの**「助言」や「アイデア」**が発端だった。そして、最近の椅子の件は、直接的な「手」の力。
「エメリアは、何か…私たちに隠していることがあるんじゃないかと…私、不安でたまらないのよ」
エルアラは、両手で自分の胸元をぎゅっと掴んだ。その瞳には、深い懸念が宿っていた。彼女の不安は、単に「不思議なことが起きている」からだけではなかった。それは、愛しい娘の身に、自分たちの理解を超えた「何か」が宿っているのではないかという、漠然とした恐怖に根差していた。
「あの子は、確かに賢いし、機転も利く。だが…ミーア鉱の性質を見抜くような知識も、どこで身につけたのか。そして、あの椅子のように、ただ触れるだけで物を直すなんて…これは、普通じゃない。まるで…魔法よ」
「魔法…」トーマスは低い声で繰り返した。彼もまた、その言葉を口にするのを躊躇していたのだ。この世界において、「魔法」は畏敬の対象であり、同時に理解されぬ者への恐れの対象でもあった。それが良いものか、悪いものか、彼らには判断がつかなかった。
「もし、エメリアが本当に、そんな不思議な力を持っているとしたら…? 私たちの知らないうちに、あの子に何か悪いことが起きるんじゃないかって…」
エルアラの声が、不安で震え始める。彼女は、娘の身に起こるかもしれない、あらゆる危険を想像していた。もし、この力が人々に知られたら、どうなるだろう? 珍しい力を持つ子供として、利用されたり、あるいは恐れられて疎まれたりするのではないか? 幼いエメリアが、その重圧に耐えられるのか。自分たち親が、その重荷から守ってやれるのか。
トーマスは、エルアラの手をそっと握った。彼も同じように考えていた。これまで、エメリアの行動は、いつも良い結果をもたらしてきた。鋤の件も、ミーア鉱の件も、村に大きな利益をもたらした。だが、その根源にある「力」が、あまりにも常識外れで、そして彼女がその全てを話していないという事実が、彼の胸に重くのしかかっていた。
「ダクレスは、何も気づいていないのか…?」トーマスが尋ねた。
「ダクレスさんは、あの子の才能とひらめきを信じているわ。そして、鍛冶師としての技術の進歩だと考えている。でも…私たちから見れば、それは、あまりにも飛び抜けた『何か』よ」
トーマスは立ち上がり、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。彼の頭の中では、様々な可能性が渦巻いていた。もし、これが本当に魔法のような力だとしたら、エメリアはどこでそれを手に入れたのか? 生まれつきのものなのか? そして、この力は、エメリアにとって良いものなのか、それとも…
「もし、この力が世間に知れたら…」トーマスの声は重かった。「あの子は、きっと目をつけられる。貴族や、もっと上…国王でさえ、この力を利用しようとするかもしれない。あるいは…理解できぬものを恐れて、遠ざけようとする者もいるだろう」
それは、親として最も恐れる未来だった。愛する娘が、その類稀なる能力ゆえに、自由を奪われたり、危険に晒されたりすること。
「私たち、どうすればいいの…?」エルアラの瞳から、涙がこぼれ落ちそうになっていた。
トーマスは妻のそばに戻り、その肩を抱き寄せた。彼の腕の中のエルアラの震えが、彼自身の不安を増幅させた。
「エルアラ。もう、見て見ぬふりはできない。私たちは親だ。エメリアの身に何が起こっているのか、そして、この力が一体何なのか、きちんとあの子に聞かなければならない」
エルアラは、トーマスの胸に顔を埋めた。不安は消えない。しかし、夫と共に、娘の真実と向き合う覚悟が決まったようだった。彼女たちは、娘がどれほど大切な存在であるかを再確認し、どんな真実であろうと受け入れ、守り抜くという、親としての揺るぎない決意を固めたのだ。
明日の朝、エメリアと、家族にとって最も大切な話し合いが待っていた。その結末が、彼らの家族、そしてエメリアの運命を、大きく左右するであろうことを、二人は予感していた。
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