第57話.グレン校長の悩みと、ロッシュ先生の困惑
エメリアが王都の衛生状態、特に学校のトイレの悪さに懸念を抱いている頃、グレン校長もまた、同じ問題に頭を悩ませていた。校長は、生徒たちの健康と学習環境の維持を強く願っていたが、学校の財政は厳しく、大規模な改修工事を行う余裕はなかった。彼の顔には、疲労の色が濃く出ていた。
ある日の放課後、校長室に呼ばれたエメリアは、グレン校長の深刻な表情に少し驚いた。校長の机の上には、真新しい紙が広げられていた。その紙には、王都の紋章が刻印されている。
「エメリアさん、君に少し相談したいことがある。他でもない、学校の衛生問題についてだ。実は、君のような聡明な生徒にこそ、意見を聞いてみたいと思っていたのだ。特に、君がリーベル村で井戸を改善したという話は、領主様から伺っている。その知識が、この学校でも役立つのではないかと期待している」
グレン校長はそう切り出し、一枚の紙をエメリアに見せた。それは、王都の衛生局から学校に送られてきた、正式な通達だった。通達には、最近、王都で軽い風邪が流行しており、衛生局からは各学校に対し、より一層の衛生管理を徹底するよう指示が出たこと、特に、トイレの改善が急務であると記されていた。
「これを見てもわかるだろう? 衛生局からも改善を求められているのだ。だが、学校の財政は常に厳しい。大規模な改修を行う予算はないのだ。生徒たちの健康を預かる者として、私も心苦しい限りだ。このままでは、いつか大きな疫病が流行してしまうのではないかと、不安で夜も眠れぬ日が続いている……。そこで、生物学の知識に長けたロッシュ先生にも同席してもらった。ロッシュ先生、何か良い方策はないものだろうか?」
グレン校長は深くため息をつき、隣に座っていた中年の男性教師、ロッシュ先生に視線を向けた。ロッシュ先生は、植物学や動物学に精通しているが、衛生学に関しては、この世界の常識の範囲でしか知識がなかった。
「校長先生のおっしゃる通り、衛生局からの通達は頭の痛い問題です。しかし、既存の排水路の改修には莫大な費用がかかりますし、定期的な清掃だけでは、この悪臭を完全に消し去ることは難しいでしょう。根本的な解決策となると、私にもこれといった妙案がございませんで……」
ロッシュ先生は困った顔で答えた。その言葉は、エメリアが感じていた違和感を裏付けるものだった。やはり、自分の感じた違和感は間違いではなかったのだ。王都全体で、衛生問題が深刻化している。そして、グレン校長が自分の悩みを打ち明け、エメリアにも意見を求めていることに、エメリアは、校長が自分を信頼してくれていることを感じ、その期待に応えたいと強く思った。
そして、グレン校長とロッシュ先生の悩みを耳にした瞬間、エメリアの**『改造』スキルの「閃き」が活性化した。目の前のトイレの構造、そこから発生する悪臭の原因、そして、それを引き起こす病原菌の繁殖。それらすべてが分子レベルで脳裏に鮮明に浮かび上がる。同時に、前世の知識で得た「理想の衛生状態」、すなわち、悪臭がなく、清潔で、病原菌の繁殖を抑えることのできるトイレ、そしてそれを実現するための「最適解の方程式」が「ヒント」**として降りてきた。
今回の**「ヒント」は、これまでのものとは少し異なっていた。単に構造を改変するだけでなく、「臭いを分解する微生物」の存在と、それを活用した「バイオトイレ」の概念が具体的に示されたのだ。さらに、水を使わない、あるいは少量で済むような排泄物の処理方法、そして、それを可能にするためのシンプルな構造設計が「ヒント」**として示された。それは、土壌中の微生物の力を借りて有機物を分解し、悪臭を抑え、衛生的かつ持続可能なトイレを実現するという、この世界の技術では想像もつかない画期的な発想だった。
「……グレン校長先生、ロッシュ先生」
エメリアは、**「閃き」**の内容を整理しながら、ゆっくりと口を開いた。脳裏に浮かんだ、微生物が有機物を分解し、土へと還していく過程が、鮮明に焼き付いている。
「もし、予算があまりない中で、トイレを改善する方法があるとすれば、それは……水をほとんど使わず、土の力を借りて悪臭をなくす方法です。そして、ある特定の**“小さな生き物”**の力を借りることで、衛生的にも改善できるかもしれません」
エメリアは、**「閃き」で得た「水を使わない(または少量で済む)排泄物処理の概念」と、「臭いを分解する微生物の活用」について、具体的な言葉を選びながら説明を始めた。直接的なスキル使用ではないが、「閃き」**に基づいた、この世界にはない発想だった。
ロッシュ先生は、エメリアの言葉に眉をひそめた。
「エメリアさん、水をほとんど使わず、土の力で悪臭をなくすとは……? それは一体どういうことだね? 土が悪臭を吸い取るというのか? そして、『小さな生き物』とは? なにか、特別な虫でも利用するとでもいうのかね?」
この世界では、「微生物」という概念はまだ知られていない。病気の原因は「悪い空気」や「瘴気」だと考えられていた。エメリアの説明は、ロッシュ先生には理解しがたいものだった。彼は、エメリアが幼い故に、突拍子もないことを言っている、と内心で思った。
「いえ、虫とは違います。目には見えないほど小さな生き物ですが、彼らは土の中で有機物を分解する力を持っています。もし、この『小さな生き物』たちの活動を活発にすることができれば、排泄物の悪臭を分解し、衛生的にも改善できるはずです。排泄物と特別な土を混ぜ合わせるような仕組みを作れば、彼らが活動し、分解を早めることができます」
エメリアは、バイオトイレの原理を、ロッシュ先生が理解できるよう、例え話を交えながら説明した。しかし、ロッシュ先生は首を傾げた。
「目に見えないほど小さな生き物が、土の中で排泄物を分解する……? エメリアさん、それはあまりにも突飛な話だ。私は長年、生物学を研究してきたが、そのような話は聞いたことがない。それに、排泄物を土に混ぜるなど、かえって不衛生になるのではないかね?」
ロッシュ先生は、エメリアの提案を頭ごなしに否定するようなことはしなかったが、彼の表情からは、強い困惑と、不信感が読み取れた。しかし、グレン校長は、エメリアの真剣な眼差しから、ただの子供の戯言ではない、何かを感じ取っていた。
「ロッシュ先生、しかし、エメリアさんの瞳には、確かに知性が宿っている。それに、彼女はリーベル村の井戸の改善に貢献した実績もある。もちろん、君の言うことも理解できる。だが、この状況で、費用をかけずに改善できる方法があるというのなら、試してみる価値はあるのではないだろうか?」
グレン校長の言葉に、ロッシュ先生は渋々といった表情で頷いた。
「しかし、もし実験を行うとしても、どのような土を使うのか、どのようにして『小さな生き物』とやらを活発にするのか……。前例のないことですから、私も手探りになってしまいますな。それに、そのような実験を、どこで……」
「ロッシュ先生、私でよければ、実験のお手伝いをさせていただけませんか? 私はリーベル村で、そういった土の扱いには慣れていますし、学校の食堂で出る、目立たない残り物の野菜くずや果物の皮などを集めることもできます。それも、『小さな生き物』の活動に役立つかもしれません。そして、学校の敷地内で、誰も使っていない小屋のような場所をお借りすることはできませんか? そこで、実験を密かに行ってみたいのです」
エメリアは、ロッシュ先生に協力体制を提案した。あくまで「お手伝い」という名目だ。グレン校長は、エメリアの申し出に目を細めた。
「なるほど、エメリアさんがロッシュ先生の助手として協力する、という形か。それならば、私も安心だ。ロッシュ先生、いかがかな?」
ロッシュ先生は、エメリアの熱意と、グレン校長の期待に応える形で、最終的に折れた。
「……仕方ありませんな。エメリアさんが助手を務めるというのなら、一度試してみましょう。学校の裏手に、長い間使われていない物置小屋があります。そこの管理は、しばらくエメリアさんに任せましょう。ただし、くれぐれも、他の生徒には内緒にしておいてください。そして、私の指示に従って、実験を進めるのですよ」
「はい! ありがとうございます、グレン校長先生、ロッシュ先生!」
エメリアは、二人の協力に心から感謝した。エメリアの心の中で、新たな挑戦への炎が、静かに、しかし力強く燃え上がっていた。
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