第58話.ロッシュ先生の実験と、エメリアの密かな思惑
グレン校長から提供されたのは、学校の裏手にひっそりと佇む、小さな物置小屋だった。長い間使われていなかったのか、小屋は埃まみれで、使われていない道具が山積みにされていた。しかし、エメリアの目には、未来への可能性を秘めた場所のように映った。
「では、エメリアさん。これが実験を行う物置小屋だ。まずは小屋の中を綺麗に片付け、実験ができる環境を整えなさい。その後、私が指示する通りに土の準備を進めるのだ」
ロッシュ先生は、物置小屋の鍵をエメリアに手渡し、指示を与えた。エメリアは「はい!」と元気よく返事をし、放課後、誰にも見つからないように物置小屋へと向かった。まず、小屋を丁寧に掃除し、埃を払い、古い道具を隅に寄せた。窓を拭き、差し込む光で小屋の中が明るくなるのを見て、エメリアは満足げに頷いた。簡素な作業台と、小さな椅子も運び込んだ。
翌日から、ロッシュ先生の指導のもと、実験が始まった。ロッシュ先生は、悪臭の原因が「停滞した悪い空気」にあると考えていたため、排泄物を土に混ぜて「隠す」ことで悪臭を抑えようとした。彼は、学校の裏庭から一般的な土を運び込ませ、大きな木箱の中に土を敷き詰めた。
「エメリアさん、ここに排泄物を投入し、その上から土をかぶせるのだ。土が悪臭を閉じ込めてくれるはずだ」
ロッシュ先生は、そう指示した。エメリアは、彼の指示に従い、排泄物を木箱に入れ、その上から土を丁寧にかぶせた。しかし、エメリアは内心で首を傾げていた。これでは、単に排泄物を土で隠しているだけで、根本的な解決にはならない。悪臭の原因である有機物の分解がなければ、いつかこの土も悪臭を放つようになるだろう。
**「閃き」**で得た「微生物の活用」には、「適切な微生物を見つけること」と、「それらを培養するための環境」が重要だと示されていた。ロッシュ先生が使っている土は、ただの庭の土だ。微生物が豊富に含まれている腐葉土などではない。そして、悪臭を分解する微生物の活動を活性化させるための、特定の振動、つまり「音波」の概念も、ロッシュ先生には伝えられていない。
エメリアは、ロッシュ先生の指示に従いながらも、密かに自分自身の実験も進めることにした。学校の裏庭の片隅や、王都の郊外にある森まで足を運び、様々な種類の土を採取した。特に、落ち葉が堆積し、土が黒く、ふかふかしている場所の土を重点的に集めた。
「これは、少し湿り気があるから、カビが多いかもしれない。こっちは、落ち葉が分解されている途中だから、色々な微生物がいるはずだわ。木の根元の方が、もっと微生物が多そうね。それぞれの土が、どんな微生物を育んでいるのかしら」
エメリアは、土を採取する際も、それぞれの土壌の特性を観察し、微生物の種類を想像した。採取した土は、物置小屋の隅に隠し、小さな鉢に分けて入れた。そして、それぞれに水や少量の栄養源(学校の食堂から、目立たないように分けてもらった残り物の野菜くずや果物の皮など)を与え、微生物の増殖を試みた。彼女は、微生物が活動するのに最適な温度や湿度、そして栄養源のバランスを、試行錯誤しながら探っていった。
**「閃き」**では、特定の周波数の音波がアダマントの原子結合を緩める、とあった。エメリアは、微生物の活動を活性化させるためにも、同じような原理が応用できるのではないかと考えていた。微生物も、ある種の振動や周波数に反応することが、前世の知識の片隅に残っていた。しかし、この世界に音波を発生させる機械はない。電気も普及していないこの世界では、音波を安定して発生させることは、簡単なことではない。
「どうすれば、微生物の活動を効率的に促進できるだろう……。特別な音を、どうやって作り出そう……。電気も使えないし、大きな機械も作れない……。でも、音叉のような原理なら……」
エメリアは、頭を抱えた。手で振動を与えるだけでは、微弱すぎるだろう。その時、ふと、前世で見た「音叉」の記憶が鮮明に蘇った。音叉は、特定の周波数の音を発する道具だ。もし、この世界に似たような原理で音を発生させる道具があれば……。
エメリアは、すぐに図書室へと向かい、音に関する書物を探し始めた。音の伝達や、共鳴現象について書かれた古びた書物を発見し、食い入るように読み込んだ。そこには、鐘や楽器の原理、そして、ある種の金属を叩くと、特定の音が響くことなどが記されていた。共鳴という現象は、この世界でも知られているようだったが、その応用までは及んでいないようだった。
そして、彼女の**『改造』スキルが再び活性化した。音叉の原理を応用し、この世界の素材で、特定の周波数の音を発生させる道具を作るための「ヒント」**が降りてきた。それは、特殊な形状に加工された金属片に、特定の衝撃を与えることで、微生物の活動を促進する微細な振動を発生させる、というものだった。それは、正確な寸法と、精巧な削り出しが必要となる、複雑な形状の金属片だ。
「これだ! この形に加工できれば、きっと微生物の活動を活性化させられるはず! この微細な振動が、微生物の成長を助けるのね!」
エメリアは興奮した。これならば、限られた素材と設備の中でも、実現可能かもしれない。必要なのは、精密な金属加工の技術だ。
エメリアは、学校の備品室で使われていない真鍮の棒を見つけた。適度な硬さがあり、加工もしやすそうだ。これを、**「閃き」**で得た形状に加工できれば……。しかし、自分で加工するには道具も技術も足りない。リーベル村にいれば、ダクレス棟梁に頼むことができるのだが、ここ王都では、そのような頼れる人物はいない。
ロッシュ先生の実験は、数日経っても目立った成果は出ていなかった。木箱から漂う悪臭は、土をかぶせることで一時的に軽減されたものの、完全に消えることはなかった。エメリアは、ロッシュ先生の指示に従いつつも、密かに自分の実験を進めるべく、誰に相談すべきか考えを巡らせていた。秘密の実験室での、エメリアの新たな挑戦が始まったばかりだった。彼女の小さな手には、大きな可能性が握られていた。
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