第60話.ロッシュ先生の困惑と、音波の「偶然」

秘密の物置小屋で、ロッシュ先生の指導のもと、水を使わない排泄物処理の実験は続いていた。ロッシュ先生は、定期的に木箱の中の土をかき混ぜ、上から新しい土をかぶせる作業を繰り返していた。しかし、木箱からは相変わらず、薄まりはしたものの、独特の悪臭が漂っていた。彼の顔には、疲労と諦めが混じり始めていた。

「うむ……やはり、この方法では根本的な解決にはならないようだ。臭いは一時的に隠せるが、根本の原因が取り除かれていない。土を入れ替え続けるにも限りがあるし、これでは衛生局への報告も難しいな……」

ロッシュ先生は、腕を組み、深くため息をついた。エメリアは、彼の指示に従いつつも、密かに自分の「微生物活性化」の実験を続けていた。ロッシュ先生がいない時を見計らって、物置小屋の隅に隠した鉢に、アルフレッドの父、エドワードが作ってくれた真鍮製の「音波発生器」を使い、微細な振動を与え続けていたのだ。

音波発生器で振動を与え続けた鉢の土は、着実に変化を見せていた。悪臭はほとんどなくなり、土はよりふかふかと柔らかくなっていた。エメリアは、この「音波発生器」が、ロッシュ先生の実験にも応用できるのではないかと考えていたが、彼が「微生物」の概念を理解できない現状では、直接提案することは難しかった。

ある日の午後、ロッシュ先生が物置小屋で実験の記録をつけていると、エメリアがうっかり、音波発生器を床に落としてしまった。

カーン、と澄んだ金属音が小屋の中に響き渡った。音波発生器は、床で跳ね返り、そのままロッシュ先生が実験している木箱の近くに転がった。

「おや、エメリアさん、何を落としたのかね? 危ないではないか」

ロッシュ先生が少し呆れたようにエメリアに声をかけた。エメリアは、慌てて音波発生器を拾い上げ、弁解した。

「す、すみません、ロッシュ先生! うっかり手が滑ってしまって……。これは、昔から音の響きが良くて、私が個人的に気に入っているもので、つい持ち歩いていました……」

エメリアは、あくまで「個人的な持ち物」であることを強調し、咄嗟に嘘をついた。ロッシュ先生は、怪訝な顔で音波発生器を一瞥したが、特に深く追求することはなかった。

その日の夕方、ロッシュ先生は、いつものように木箱の悪臭を確認しようと、顔を近づけた。すると……。

「……む? なんだ、これは……? 悪臭が、ほとんどしない……?」

ロッシュ先生は、自分の鼻を疑った。確かに、いつもは鼻を刺すような悪臭が、今はほとんど感じられないのだ。土の色も、心なしか以前より黒ずみ、しっとりとしているように見えた。彼は、驚きと混乱が入り混じった表情で、木箱の中を覗き込んだ。

「エメリアさん、これはどういうことだね? 今日の午後、何か特別なことをしたのかね?」

ロッシュ先生は、小屋の隅で片付けをしていたエメリアに尋ねた。エメリアは、内心でニヤリとしたが、表情には出さず、あくまで冷静に答えた。

「特別なこと、ですか……? いえ、特に何もしておりませんが……。ただ、午後、私が落としてしまったあの金属の棒が、木箱の近くで響いていましたけれど……それが何か関係あるのでしょうか?」

エメリアは、あくまで「偶然」を装った。ロッシュ先生は、眉間にしわを寄せ、考え込んだ。彼には、エメリアが落とした金属の棒の音と、悪臭の減少との間に、何の関連性も見出すことができなかった。しかし、目の前の事実として、悪臭がほとんどないのは明らかだった。

「金属の棒の音……? まさか、そんなことで悪臭が消えるはずがない。だが、この悪臭が消えたのは事実……。何が起こったのだ?」

ロッシュ先生は、信じられないといった様子で、首をひねった。彼は、目に見えない「小さな生き物」の存在を信じていない。しかし、目の前で起こった不可解な現象に、彼の科学者としての好奇心が刺激された。彼は、その金属の棒が、何かしらの偶然を引き起こしたのではないかと、半信半疑ながらも考え始めた。

「エメリアさん、その金属の棒を、もう一度、今度は意図的にこの木箱の近くで鳴らしてみてくれないか?」

ロッシュ先生の言葉に、エメリアは内心でガッツポーズをした。これは、**「閃き」**をこの世界の常識に落とし込むための、大きなチャンスだ。

「はい、ロッシュ先生。やってみます」

エメリアは、真鍮製の音波発生器を手に取り、木箱の傍らで、そっと特定の場所を叩いた。カーン、と澄んだ音が再び小屋の中に響き渡る。ロッシュ先生は、その音の響きに耳を傾け、木箱の土の様子を、食い入るように観察した。

エメリアの**『改造』スキルがもたらす「閃き」**は、この世界の常識では理解できない奇跡を生み出そうとしていた。ロッシュ先生の困惑と、エメリアの密かな思惑が交錯する中で、王都の衛生問題解決に向けた、新たな一歩が踏み出されようとしていた。