第80話.ベイルの壁と、エメリアの閃き

ロッシュ先生とエメリアは、薬品分析所との協力体制のもと、新たな実験に挑んでいた。ロッシュ先生は、学校の物置小屋で小型浄化装置の改良と「特別な土」の活性化に努め、その成果を定期的にベイルに報告していた。一方、ベイル薬品分析所で、浄化された水の安全性と、土の中に存在する「未知の成分」の解明に没頭していた。

しかし、ベイルの研究はすぐに壁にぶつかった。浄化装置から流れ出た水に含まれる微量の毒性物質は、従来の分析方法では特定が困難だった。そして何よりも、「粒子」と彼が呼ぶ未知の成分の解明は、この世界の科学の常識をはるかに超えていた。

「どうにもならない……。この成分は、我々の知るどの鉱物、どの薬品とも違う。熱を加えても、酸を加えても、ほとんど変化しない。まるで、生命を持つかのように、自らの形を保っている……」

ベイルは、机に山積みにされた分析結果の羊皮紙を前に、苛立ちを隠せないでいた。彼の科学者としてのプライドは、この未知の存在によって打ち砕かれようとしていた。

そんな折、ロッシュ先生から新たな実験報告が届いた。エメリアが考案した、「特別な土」に特定の植物の葉を混ぜるという実験だ。ロッシュ先生は、その方法によって、土の浄化能力がさらに向上したと報告していた。

その報告を読んだベイルは、ふと、エメリアの言葉を思い出した。

「植物の葉……? ロッシュ先生、私はこの実験の成果は、あなたの科学的知識と、エメリアさんの『閃き』によってもたらされたと伺っている。その『閃き』について、もう少し詳しく話を聞かせてもらえないだろうか?」

ベイルは、ロッシュ先生にそう問いかけた。するとロッシュ先生は、目を輝かせながら答えた。

「エメリアさんの『閃き』は、まるで魔法のようです! 彼女は、この『粒子』が悪臭を『食べる』という発想を最初に私に与えてくれました。そして、特定の音を与えることでその活動が活発になるという、この実験の根幹も、彼女の『閃き』から始まったのです! 今回の植物の葉についても、彼女の『閃き』がなければ、私には思いつかなかった発想です!」

ロッシュ先生の熱心な説明に、ベイルは改めてエメリアという少女の特異な才能を認識した。彼は、自らの科学的知識だけではこの壁を乗り越えられないと悟り、エメリアとの直接的な対話を望んだ。

数日後、放課後の物置小屋にベイルが姿を現した。エメリアとロッシュ先生は、彼が直接訪ねてきたことに驚いた。

「エメリアさん。私は、あなたの『閃き』について、もう少し詳しく聞きたい。なぜ、特定の音を『特別な土』に与えれば、その活動が活発になると考えたのですか? そして、植物の葉を混ぜれば浄化能力が向上すると、なぜわかったのですか?」

ベイルは、いつもの冷静な口調ながらも、その瞳には真剣な光が宿っていた。

エメリアは、少し戸惑いながらも、言葉を選んで答えた。

「えっと……、その……。何だか、この『粒子』が、生き物みたいに思えたんです。生き物には、好きな音や、好きな食べ物があるでしょう? だから、もしかしたら、この子たちにもそういうものがあるんじゃないかって……。植物の葉は、ちょうど、その……元気が出るご飯、みたいなイメージです」

エメリアの言葉は、科学的な根拠とはかけ離れた、直感的なものだった。しかし、その言葉を聞いたベイルの頭の中に、『未知の成分』の分析結果と、エメリアの『閃き』が結びついた。

「生き物……! まるで生き物のように振る舞う、未知の成分……! そうか! 我々は、この未知の成分を『鉱物』や『薬品』として分析しようとしていたが、もしこれが**『生命体』**だとしたら、我々の分析方法では、その本質を捉えることはできない! まさに、盲点だった!」

ベイルは、目を見開いて叫んだ。彼の頭の中に、新たな実験の道筋が見え始めた。それは、この『未知の成分』を、この世界の科学ではまだ解明されていない『微生物』という概念として捉える、画期的な発想だった。

エメリアの何気ない一言が、王都の最高峰の科学者であるベイルの壁を打ち破り、この世界の科学を、微生物学という新たな分野へと導くきっかけとなったのだった。