第86話.新たな日常と、少女のささやかな悩み

王都に巨大な濾過施設が稼働し始めてから、数か月が経った。以前は悪臭が漂っていた街は、人々の笑い声と、清らかな水の流れる音で満ちていた。エメリアが通う学校でも、生徒たちの間ではこの変化が大きな話題となっていた。

「ねえ、エメリア。最近、街を歩いてると、なんだか空気がきれいになった気がしない? 昔は、ちょっと歩くだけで鼻をつまみたくなるくらいだったのに」

休み時間の教室で、エメリアの隣に座る友人の少女、リナがそう話しかけてきた。彼女は窓の外を指さし、楽しそうに笑っている。

「うん、そうだね。それに、川の水もすごくきれいになったって、お父さんが言ってたわ。魚が戻ってきたんだって。前は汚れてて、誰も釣りなんかできなかったのに」

もう一人の友人であるマリアも、はつらつとした声で続けた。彼女たちの話は、王都の人々の生活がいかに変わったかを物語っていた。エメリアは窓の外に広がる、活気に満ちた王都の景色を眺めた。人々が笑顔で会話を交わし、澄んだ川のほとりで子供たちが水遊びをしている。自分たちの「実験」が、こうして人々の日常を豊かに変えている。その事実に、エメリアの胸には温かいものが込み上げてきた。

しかし、その一方で、彼女には一つだけ、誰にも話せない小さな悩みがあった。


「…以上、本日は薬草『リリアンの葉』の解毒作用について説明しました。では、各自、この葉の成分を分解するための魔法陣を、テキストに従って書き写しなさい」

五時間目の魔法薬学の授業。担当の教師が、解毒作用のある薬草について熱心に説明しているが、エメリアの頭の中には、さっぱり内容が入ってこない。

(『リリアンの葉』の成分をどうやって分解するか、か……。私の**『閃き』**を使えば、きっと簡単に分解する方法はわかるだろうけど……。でも、授業で習った内容を理解しないと、どうしてその方法が有効なのか、根拠が説明できないし……)

エメリアの「閃き」は、彼女の知識や理解度と密接に結びついていることを、彼女は薄々感じ始めていた。ただ直感に頼るだけでは、いつか限界が来るのではないかという不安が、彼女の中にあった。この世界の常識や知識を身につけることが、『改造』スキルをより効率的に、そして安全に使うための土台になると直感していたのだ。

放課後、いつものように物置小屋でロッシュ先生の実験を手伝った後、エメリアは先生にそっと相談した。

「あの、ロッシュ先生。私、授業で習う知識と、私の**『閃き』との間に、なんだかギャップがあるような気がして……。もっと、この『閃き』**を効率的に、役に立てる方法って、ないんでしょうか?」

ロッシュ先生は、エメリアの真剣な問いかけに、優しく微笑んだ。

「それは、とても良い疑問だね、エメリアさん。君の**『閃き』は、君の知識と経験が土台になっている。だからこそ、勉学をおろそかにしてはいけない。効率的に役立てる方法……。そうだ、明日から少し、授業の予習や復習を手伝ってあげようか。君が授業で疑問に思ったことを、私に話してくれるだけでいい。君の『閃き』**を、この世界の科学知識と結びつけることで、きっと新しい道が見つかるはずだ」

ロッシュ先生の提案に、エメリアは顔を輝かせた。

(先生が手伝ってくれるなら、心強いな。これなら、勉強も頑張れるかもしれない!)

彼女は、ロッシュ先生との新たな「実験」に、胸を躍らせていた。それは、王都の衛生問題を解決するような壮大なものではなく、一人の少女の成長を支える、ささやかな旅路の始まりだった。