第17話「夏の影と子守唄」

蝉の声が屋敷の石壁に跳ね返り、夏の到来を告げていた。

この季節になると、村の子どもたちは川で遊び、大人たちは収穫前の畑を見守る。どこか朗らかで、しかし緊張の糸を含んだ日々が流れていく。

「リリア、今日は村の教会で子どもたちに読み聞かせをしてくれるそうね」

姉のエミリアが、いつもの優雅な笑みを浮かべながら言った。

「うん。ナタリーに相談して、こっそりお願いしたの」

「本好きのあなたらしいわ」

読み聞かせは、些細な行事かもしれない。でも私にとって、それは大きな試みだった。

──この世界で、誰かの“未来”を照らすために。


村の教会は、白い石造りの小さな建物だった。

祭壇の前に並べられた長椅子の一番前に、子どもたちがちょこんと座っている。その後ろに数人の母親たちと、神父様が目を細めて見守っていた。

私は持参した本を開いた。

それは、かつて祖母が読んでくれた昔話。勇気ある少女と、言葉を持たない竜の物語。

「むかしむかし、星がまだ今よりもずっと近くにあったころ……」

声を落ち着け、丁寧に語り始める。子どもたちは、目を輝かせて聞き入っていた。

一人の小さな男の子が、そっと手を挙げた。

「ねぇ、その女の子は、どうして竜を助けたの?」

私は一瞬、言葉を探した。

──この子は、心のどこかで知っているのだ。

助けるということが、時に恐れを伴うものだということを。

「たぶんね、その子は、竜が“ひとりぼっち”だってわかったからだよ」

「……ひとりぼっち、かわいそうだもんね」

頷いたその目に、ほんの少し、影が差していた。

私はその子を覚えている。北の畑の近くに住む、小作農の息子。病弱な妹がいると聞いていた。

読み聞かせが終わると、母親たちが「ありがとう」と頭を下げてくれた。

「リリアさまの声は、本当に心が静まるようで……」

「いえ、私も、楽しかったです」

私は微笑みながら、教会を後にした。

けれど、あの小さな男の子の目が、ずっと胸に残っていた。


帰りの馬車で、ナタリーが静かに言った。

「お嬢さま……あの子どもたち、嬉しかったと思いますよ」

「うん、でも……なんだかね、あの子の顔が忘れられなくて」

「一緒に何か、できるといいですね」

私は、窓の外に流れる麦畑を見つめた。

──本を読むだけじゃ、届かないものがある。

──でも、本から始まる何かが、きっとある。


その夜、私はこっそり使用人用の厨房へ向かった。ナタリーが内緒で教えてくれた、村に届ける食材の仕分け作業。

「お嬢さま!? いけません、ここは……!」

「ごめんなさい、でもどうしても見ておきたいの。お願い、少しだけでいいから」

若い料理人の娘は困惑しながらも、ナタリーの目配せでうなずいた。

「村に送る分、こうやって計って、箱に詰めるのよ。今年は暑いから、傷まないように早めにね」

彼女の手元を見ながら、私はあることに気づいた。

「これ……全部の村に均等に送ってるの?」

「基本的にはそうですね」

「でも、北の畑の家は……」

私は一つ一つの名前と量を、頭の中で比較していった。資料の中では、北の村の作物収穫率は最も低い。それなのに、配給量は他と同じ。

(バランスがおかしい。これでは、食べ盛りの子たちには足りない)

もちろん、急に制度を変えることなどできない。でも――

私はナタリーに耳打ちした。

「来月分の配送、北の村にだけ少し早く送ってもらえないかな。ほんの少しでいいの。理由は、私のわがままだって言ってくれていいから」

ナタリーは少し驚いたが、静かに微笑んだ。

「わかりました。私の責任にしておきます」


数日後、あの教会で再び子どもたちに会った時、小さな男の子が私の袖を引っ張った。

「おねえちゃん……おかあさんがね、今日はパンがいっぱいあったって、笑ってたよ」

私は、思わず息をのんだ。

「そっか……それは、よかったね」

「またお話、してくれる?」

「うん、もちろん。今度はね、もっと面白いのを持ってくるよ」

その笑顔は、何よりの贈り物だった。

私はまだスキルも使っていない。改造も、操作もしていない。

ただ、少し目を凝らして、耳を傾けて、手を伸ばしただけ。

それだけで、世界はほんの少し、柔らかくなった気がした。


第17話 完

  • Related Posts

    第19話「新しい種」

    秋の気配が濃くなり、屋敷の庭の木々もほんのりと色づきはじめた…

    第18話「流れを導く手」

    夏の陽射しが照りつける中、私は再び村を訪れていた。前回の視察…

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    You Missed

    第19話「新しい種」

    第18話「流れを導く手」

    第17話「夏の影と子守唄」

    第16話「小さな波紋」

    第15話「秘密の重み」

    第14話「静かな一歩」