【小説】理想の隠れ家

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理想の隠れ家

ある資産家の男がいた。彼は極度の人間嫌いで、自身の莫大な財産を狙うセールスマンや、寄付を募る団体、あるいは単なる好奇の目に晒されることをひどく恐れていた。

彼は鉄壁のプライバシーを守るため、最新のバイオテクノロジーが生み出した「カメレオン蔦(づた)」という植物を購入した。この植物は、周囲の環境を光学的に解析し、自らの葉の色や質感を変化させ、対象物を風景に完全に溶け込ませる機能を持っていた。

効果は劇的だった。 蔦は瞬く間に邸宅を覆い尽くし、背後にある荒野の風景と同化した。遠くから見れば、そこにはただのなだらかな丘があるようにしか見えない。高性能な偵察衛星でさえ、そこを「植生のある無人の荒地」と認識した。

「これで誰にも邪魔されない」

男は邸宅の内部にあるモニターで、自宅の前を素通りしていく訪問者たちを眺めては、優越感に浸った。郵便配達員も、強盗団の下見役も、彼の家が存在することにさえ気づかずに通り過ぎていく。彼は世界から消失し、完全な安息を手に入れたのだ。

数ヶ月が過ぎた。男は快適な隠遁生活を送っていたが、唯一の欠点は、自分からも外の世界が見えにくいことだった。 ある日、彼は注文していた嗜好品が、配達用無人機によって敷地の境界線付近に投下されたことを知った。無人機が家の着陸ポートを認識できず、エラーを起こして荷物を落としていったのだ。

「まったく、不便な世の中だ」

男は舌打ちをしながら、久しぶりに重い防音扉を開けた。外の空気は冷たかった。彼はサンダル履きのまま庭を横切り、荷物を回収した。 そして、暖かい部屋に戻ろうとして、踵を返した。

そこには、何もなかった。

ただ、風に揺れる荒涼とした草原が広がっているだけだった。

「あれ?」

彼は数歩進み、手を伸ばした。空を切る。 方向を間違えたのかと思い、周囲を見回した。しかし、どこを見ても同じような草むらが続いているだけだ。目印になりそうな木も岩も、すべてカメレオン蔦が「風景のノイズ」として処理し、滑らかな草原の映像で覆い隠してしまっていた。

「おい、家はどこだ! 扉はどこだ!」

彼は叫びながら、見えない壁を探して走り回った。しかし、蔦の擬態能力は完璧だった。視覚的なカメレオン効果に加え、葉の表面が音波を吸収し、反響さえも消し去っていた。

邸宅は確実にそこに存在する。暖炉には火がともり、淹れたてのコーヒーが湯気を立てているはずだ。だが、男は二度とそこへ帰ることはできなかった。

彼は自分の敷地の真ん中で、広大な何もない空間に向かって、永遠にノックを続けている。

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