ノイズの除去
ある男がいた。彼は、現代の合理的な社会において、少々特殊な職業に就いていた。それは「未解明現象の清掃人」とでも呼ぶべき仕事である。
高度に発達した科学文明は、夜の闇を駆逐し、あらゆる迷信を過去のものとした。しかし、人間の脳には古い時代の本能が残っている。古い建物、湿った地下室、あるいは無機質な居住区の片隅で、人々は「何か」を見たと騒ぎ立てることがある。それが視覚情報の処理エラーであれ、磁場の乱れによる幻覚であれ、居住者にとっては不快なノイズに過ぎない。
男の仕事は、そうしたノイズを除去し、物件の資産価値を回復させることだった。彼は決して情緒的な祈祷師などではない。最新の理論と装備で武装した、冷徹な技術者である。
「今回の現場は、少々厄介らしいですね」
携帯型の通信機から、事務的な声が聞こえた。男は旧式の四輪車を走らせながら、目的地の洋館を見上げた。都市の中心部から離れた森の中に、その建物はあった。かつて富裕層が余暇を楽しむために建てたものだが、今は蔦に覆われ、所有者が次々と謎の失踪を遂げる場所として知られている。
「厄介? 言葉の使い方が間違っている」男は薄く笑い、助手席に置いた金属製のケースを撫でた。「現象には必ず原因がある。原因があれば、対処法がある。それだけのことだ」
男は車を降り、重厚な扉を開けた。埃の匂いと共に、まとわりつくような冷気が肌を刺す。一般人であれば恐怖を感じる演出だが、男にとっては空調設備の不備と断熱材の劣化を示すデータに過ぎない。
彼は広間の中央にケースを置き、手際よく装置を組み立て始めた。それは、空間の歪みを観測し、強制的に数値を正常化する「環境安定化装置」だ。どれほど強力な幻覚作用を持つ磁場であろうと、この装置が発する特殊な波動の前では霧散する。
「さあ、始めようか」
男がスイッチに手をかけたその時だった。
『……帰れ』
低い唸り声が、部屋の四方から響いた。振動計の数値が跳ね上がる。男は眉一つ動かさず、声の発生源を探るように視線を巡らせた。
「音声による威嚇行動。パターンCか。実に古典的だ」
『ここは、お前たちが居ていい場所ではない……』
空間が揺らぎ、男の目の前にぼんやりとした人影が浮かび上がった。青白く発光し、半透明の体を持つ、いわゆる「幽霊」のステレオタイプそのものの姿だ。その顔は苦悶に歪み、見る者に本能的な嫌悪感を催させる。
しかし、男は感心したように頷いただけだった。
「素晴らしい。これほど高密度のエネルギー体は珍しい。君は、過去の住人の記憶情報の残滓か、それとも特定の感情周波数が凝り固まったものか。どちらにせよ、私の装置の実験台としては申し分ない」
幽霊は怒ったように空間を震わせた。突風が巻き起こり、家具がガタガタと音を立てる。
『我を愚弄するか。我はこの地に縛られし無念の塊。生者の理屈など及ばぬ存在だ。命が惜しくば立ち去れ』
「無念、ね」男は鼻で笑った。「君たちはいつもそうだ。感情論で物理法則を曲げられると思っている。だが、残念ながらこの世界は数式でできているんだ。君のその『無念』とやらも、解析すればただの電気信号のループに過ぎない」
男は装置のダイヤルを回した。低い駆動音が響き始め、部屋の空気が張り詰める。
「この装置は、空間における『存在の不確定性』を除去する。君のような曖昧な存在は、この世界においてバグのようなものだ。強制的に確定させることで、君は存在できなくなる」
『やめろ……それを回すな……』
幽霊の声に焦りが混じった。男はその反応を見て、勝利を確信した。恐怖こそが、彼らのエネルギー源だ。逆に彼らが恐怖を感じた時点で、勝負はついている。
「君も元は人間だったのなら、理解できるはずだ。進歩とは、整理整頓のことだ。未練がましいノイズは消去され、クリアなデータだけが残る。それが正しい世界だ」
男はレバーを最大出力まで押し上げた。
キーンという鋭い音が鼓膜を突き、部屋全体が強烈な光に包まれた。空間が捻じれ、視界が白く染まる。幽霊の絶叫が響き渡り、そして、プツリと途絶えた。
光が収まると、そこには静寂だけが残っていた。
冷気は消え、空気は乾燥し、ただの古い空き家の匂いに戻っていた。男は満足げに計器を確認した。異常数値はすべてクリアされている。
「任務完了だ。やはり、科学に勝るものはない」
男は装置を片付け、悠々と洋館を出た。夜空には星が輝き、森の木々は風に揺れている。すべてが論理的で、説明可能な世界だ。
彼は車に乗り込み、エンジンをかけた。帰路につきながら、報告書の構成を考える。「旧時代のエネルギー残留物を消去。物件の安全性は確保された」と。これでまた、多額の報酬が振り込まれるだろう。
男は上機嫌で、通信機のスイッチを入れた。
「本部、聞こえるか。作業は終了した。帰還する」
しかし、通信機からはノイズが流れるだけだった。
「故障か? 場所が悪いのかもしれないな」
男は気にせず、車を走らせ続けた。しかし、どれだけ走っても、森を抜けることができない。一本道のはずなのに、景色がループしているように感じる。
「迷ったか。ナビゲーションシステムはどうなっている」
操作パネルに触れようとした瞬間、男は違和感を覚えた。指先が、パネルをすり抜けたのだ。
「……なんだ?」
男は自分の手を見た。青白く、透き通っている。 急いでブレーキを踏もうとしたが、足はペダルを通過し、床下へと抜けていった。車は制御を失うことなく、勝手に走り続けている。いや、車だけではない。男の体そのものが、車という物質から浮き上がり、夜の空間に取り残されようとしていた。
その時、目の前の空間にモニターのようなウィンドウが浮かび上がり、先ほどの「幽霊」の顔が映し出された。だが、その表情は先ほどまでの苦悶に満ちたものではなく、ひどく理知的で、冷ややかなものだった。
『警告。システムの整合性チェックが完了しました』
男は呆然としながら、その声を聞いた。それは幽霊の声ではなく、機械的な合成音声だった。
『君が使用した装置は、確かに「存在の不確定性」を除去するものだ。空間におけるバグを検知し、削除する機能を持つ』
「私は……私は、お前を消したはずだ!」男は叫ぼうとしたが、声は音波にならず、ただの思念として響いただけだった。
『訂正しよう。君たちの文明レベルでは理解できなかったかもしれないが、この領域において「確定した存在」とは、我々のようなエネルギー生命体のことだ。君たちのような、肉体という不完全な物質に依存し、わずか数十年で崩壊するタンパク質の塊こそが、宇宙規模で見れば「不確定で不安定なバグ」なのだよ』
男の周囲の景色が、急速に色あせていく。森も、車も、道路も、すべてがデータの羅列のように分解されていく。
『君は自らの手で、この空間の最適化プログラムを起動させた。「曖昧な存在」である自分自身を消去し、「確定した存在」である我々を安定化させるためにね。君の論理は正しかったよ。進歩とは、整理整頓のことだ』
画面の中の存在は、皮肉っぽく微笑んだように見えた。
『感謝する。君のおかげで、我々はこの物理次元に完全に定着できた。君というノイズが消えたことで、ここは非常に快適な居住区になりそうだ』
男の意識は薄れていく。最後に見たのは、洋館の窓に明かりが灯り、そこから透き通っていない、確かな実体を持った「彼ら」が、楽しげに夜の森を見下ろしている光景だった。
彼にとっての現実は、彼らにとっての怪談話の種にすらならなかった。ただのデータ処理の一環として、男は静かにエンターキーを押されたのだった。


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