短編小説:『硝子の処方箋』

小説

『硝子の処方箋』

窓の外では、鉛色の雨が降り続いていた。
古びた洋館を改装したこの療養所は、世界から切り離された孤島のようだ。
湿り気を帯びた風が窓枠を揺らす音だけが、私の鼓膜を震わせている。

シーツに包まれた身体は、鉛のように重い。 また、あの「熱」が上がってきているのだ。
体温計の数値など見る必要はない。
皮膚の内側を灼くような焦燥感と、指先が痺れるほどの渇きが、私の症状の重さを物語っている。

コツ、コツ、コツ。

廊下の向こうから、硬質な革靴の音が響く。
その音を聞いた瞬間、私の身体は条件反射のように強張り、そして弛緩した。
恐怖と歓喜。相反する二つの感情が、血管の中で混ざり合う。

「……良い子にしていましたか?」

重厚な扉が開き、現れたのは白衣を纏った男――先生だった。
整いすぎた顔立ちは、陶器のように冷たい。
銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、私を人間として見ているのか、それとも壊れかけた実験動物として見ているのか、決して判別できない。

「先生、苦しいんです……早く、」
「焦ってはいけません。治療には手順というものがある」

先生はベッドサイドに立つと、私の顎を冷ややかな指先で掬い上げた。
手袋越しではない、素手の感触。
ひやりとした温度が、火照った頬に心地よい。
けれど、その指は優しさとは無縁の力で、私に上を向くよう強制する。

「顔色が悪いですね。脈も速い。……これでは、強いお薬が必要だ」

先生は満足げに目を細め、サイドテーブルの小瓶に手を伸ばした。
琥珀色の液体が入った、名前のない小瓶。
それが何であるか、私は知らない。
鎮痛剤なのか、幻覚剤なのか、あるいはただの砂糖水なのか。
けれど、それを飲まなければ私は呼吸さえままならないのだ。

「口を開けて」

命令は絶対だ。
私は震える唇を開き、先生が差し出すスプーンを待つ。
とろりとした液体が、舌の上に落ちる。
甘く、苦く、そして脳髄が痺れるような強烈な香り。

「ん……ぁ……」

喉が鳴る。本能がそれを求めて、嚥下する。
液体が食道を通って胃に落ちていく感覚が、鮮烈に焼き付く。
その瞬間、身体の芯から力が抜け、シーツにしがみついていた指が解けた。

「いい飲みっぷりだ。……飲み込む姿も、実に扇情的ですよ」

先生は空になったスプーンを置くと、今度は聴診器を首から外した。
金属のチェストピースが、私の薄い寝間着の胸元を押し開く。

「心音を確認します。……暴れないで」

冷たい金属が、汗ばんだ左胸に押し当てられる。
ひやりとした刺激に背中が跳ねるが、先生のもう片方の手が私の肩を強く押さえつけた。
逃げられない。その拘束感が、薬の作用と混ざり合い、私の意識を朦朧とさせる。

トクン、トクン、トクン。

早鐘を打つ心音が、聴診器を通して先生の耳に届いているはずだ。
それは私の命の音であると同時に、先生への絶対的な服従を誓う音でもあった。
私の身体は、先生がいなければ成立しない。
この薬がなければ、私は私でいられない。

「……ふむ。まだ乱れていますね。これでは、もう一つの処置が必要かもしれない」

先生は聴診器を離し、私の耳元に顔を寄せた。
整髪料と消毒液、そして微かな煙草の残り香。
それらが混ざり合った「先生の匂い」が、私の理性を最後の境界線へと追いやる。

「私の言いつけを守れますか? これから、もっと深いところまで……貴方を『治して』あげなくてはならない」

「はい……先生、お願い、します……」

私の言葉は、懇願だった。
病気が治ることを願っているのではない。
この甘美な支配が永遠に続くことを、私は願っていた。

先生の指が、ゆっくりと私の首筋を這う。
それは診察のようでもあり、愛撫のようでもあった。
頸動脈を押さえる親指に、わずかに力が込められる。
呼吸が制限され、視界が白く明滅する。

苦しい。
けれど、その苦しみこそが、私が生きている証だった。

「可哀想な患者さん。……貴方のその病は、私がいる限り完治することはないでしょうね」

先生の唇が、嘲るように歪むのを見た気がした。
けれど、意識はすでに泥のような微睡みの中へ沈んでいく。
薬が効き始めたのだ。
現実と幻想の境界線が溶け、私はただ、先生という絶対的な存在の腕の中で、永遠の病に微睡むことを許される。

外の雨音は、もう聞こえない。
ここにあるのは、狂おしいほどの静寂と、私を支配する冷たい体温だけだった。


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