短編:『硝子の檻、あるいは愛の不在証明』

小説

『硝子の檻、あるいは愛の不在証明』

世界を支配しているのは、神ではない。レンズだ。
私はそう信じている。
肉眼で見る現実はあまりに不確かで、感情というノイズが混じる。
けれど、冷徹な光学レンズを通した世界は違う。
そこには残酷なまでの「真実」だけが焼き付けられるからだ。
私の部屋──この家の離れにある薄暗い書斎には、六つのモニターが鎮座している。
それらが映し出すのは、母屋のリビング、廊下、そして彼女の寝室。
家主である私の兄は、海外赴任で長く家を空けている。
この広い邸宅に残されたのは、義理の弟である私と、兄の妻である彼女──京子(きょうこ)さんだけだ。
午後四時十三分。 西日がリビングのレースカーテンを透かし、床に幾何学模様の影を落とす刻限。
私はヘッドフォンを耳に当て、ボリュームのつまみをゆっくりと回す。
カツ、カツ、カツ。 硬質なヒールの音が、ノイズ混じりの電気信号となって鼓膜を震わせる。彼女の帰宅だ。
モニターの中の京子さんは、今日も完璧だった。
淡いベージュのスーツに身を包み、背筋をピンと伸ばして歩く姿は、まるで彫刻のように美しい。
近所では「貞淑な妻」として評判の彼女だ。
兄の留守を預かり、義弟の世話を焼き、一片の隙も見せない聖女。
だが、私だけは知っている。
その聖女の仮面が、あまりに薄く、脆いものであることを。
彼女はリビングの中央で足を止めると、ふう、と長く重い息を吐き出した。
その溜息はマイクを通し、私の脳髄を直接撫でるような湿り気を帯びていた。
ここからが、私と彼女だけの──彼女は知る由もない──秘密の儀式の始まりだ。
京子さんは、誰の目もないことを確認するかのように、気怠げに首を回した。
ポキリ、と小さな音が鳴る。
彼女はハンドバッグをソファに放り投げると、儀式的な手つきでジャケットのボタンを外し始めた。
画質の粗いモノクロームの映像。
その向こう側で、彼女の指先が白くなめらかな陶器のように動く。
ジャケットが滑り落ち、シルクのブラウス一枚になった彼女の身体のラインが、逆光の中でシルエットとなって浮かび上がる。
私は唾を飲み込む。 美しい。
直接触れるよりも、こうして断絶された空間から一方的に貪るほうが、なぜこれほどまでに情欲を煽るのだろう。
彼女の体温、肌の匂い、衣擦れの音。それらすべてが、モニターという濾過装置を通すことで、純度の高いドラッグへと変質する。
「……あつい」
独り言が漏れる。
彼女はブラウスの襟元を寛げ、鎖骨のあたりを手のひらで仰いだ。
滲んだ汗が、首筋を伝って胸の谷間へと消えていく。
私はその一滴の雫になりたいと願うと同時に、それを記録する無機質な「目」でありたいと願った。
私の仕掛けたカメラは、全部で八つ。
今、彼女を捉えているのは、観葉植物の鉢に埋め込んだ超小型レンズだ。
下からのアングルが、彼女の顎のラインと、伏し目がちな睫毛の影を克明に映し出している。
彼女はキッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
グラスには注がない。
ボトルのまま、無防備に口をつける。喉仏が小さく上下し、水を嚥下する音がヘッドフォンに響く。
その野性的な仕草に、私は背徳的な震えを覚えた。
兄の前では決して見せない、動物としての「雌」の顔。
それを独占しているという優越感が、私の中でどろりとした熱になって渦巻く。
その時だった。 ふいに、京子さんの動きが止まった。
飲みかけのボトルを持ったまま、彼女はゆっくりと視線を巡らせる。
リビングの壁、天井、そして本棚。 私の心臓が早鐘を打つ。
まさか、気付かれたのか?
いや、そんなはずはない。カメラの擬装は完璧だ。プロでも見抜けない自信がある。
だが、モニター越しの彼女の雰囲気は、明らかに変化していた。
先ほどまでの弛緩した空気ではない。獲物を前にした肉食獣のような、張り詰めた気配。
彼女は、ゆっくりと歩き出した。
向かう先は、本棚だ。 そこには、三冊目の哲学書の背表紙の隙間に、高性能なレンズを仕込んである。
彼女の顔が、どんどん大きくなる。
画角いっぱいに、彼女の美しい顔が迫る。
焦点が合う。 彼女の瞳。その濡れた黒い瞳が、レンズの奥にいる私を──いや、私の魂そのものを射抜いていた。
(見ているんだろう?)
声には出さない。けれど、彼女の唇は確かにそう動いた。
私は椅子から転げ落ちそうになるほど狼狽した。
バレていた。いつからだ?
最初からか?
恐怖で指先が冷たくなる。
社会的抹殺、兄からの断絶、軽蔑。
あらゆる最悪のシナリオが脳裏をよぎる。
だが、次の瞬間、彼女が見せた表情は、私の予想を遥かに超えるものだった。
京子さんは、艶然と微笑んだのだ。 それは、聖女の慈愛に満ちた笑みではない。
もっと淫らで、もっと毒々しく、そしてどうしようもなく魅力的な「共犯者」の笑みだった。
「ねえ、義弟さん」
彼女はレンズに向かって、恋人に囁くように語りかけた。
「最近、画角がワンパターンじゃないかしら」
思考が停止する。 彼女は何を言っているんだ?
「観葉植物の陰からのアングルは好きよ。でも、もっと寄りたいと思っているんでしょう?……例えば、ここ」
彼女は自身のブラウスの第二ボタンに指をかけ、ゆっくりと、焦らすように外した。
白い肌が露わになる。黒いレースの縁取りが見える。
私はモニターの前で、呼吸すら忘れて魅入っていた。逃げなければならないのに、指一本動かせない。
「あなたが見ていることなんて、三ヶ月前から知っていたわ」
彼女はクスクスと笑いながら、レンズの周りを指先で愛おしげに撫でた。
その指の動きは、まるで私の頬を撫でているかのようだ。
「最初は驚いたわ。気持ち悪いとも思った。でもね……気付いてしまったの」
彼女の瞳が、恍惚と狂気を孕んで揺らめく。
「誰にも見られていない私は、ただの抜け殻なの。兄さんの前で演じる『良い妻』も退屈な嘘。でも、あなたのこのレンズの前でだけは……私は、誰よりも美しくなれる」
彼女は知っていたのだ。
見られることで、自分が「消費」されることで、初めて自分の存在輪郭が確かになることを。
そして、その欲望を満たすために、私という卑しい観客が必要であることを。
「もっと見て。瞬きもしないで。私のすべてを、その薄汚いハードディスクに焼き付けて」
命令だった。 それは拒否権のない、絶対的な女王からの勅命。
彼女はスカートのホックに手をかけ、ゆっくりとファスナーを下ろしていく。
レンズ越しに見るその姿は、神々しいほどに背徳的で、私は思わず呻き声を漏らした。
私は勘違いしていた。 私が彼女を「檻」に閉じ込めて監視していると思っていた。
だが、違ったのだ。 閉じ込められていたのは、私の方だった。
この薄暗い部屋で、モニターという硝子の檻に張り付き、彼女が与える餌(かいらく)を口を開けて待つだけの、哀れな家畜。
彼女のスカートが床に落ちる。 私は震える手で、録画ボタンを強く押し込んだ。
もう、後戻りはできない。
私たちは、この歪なレンズを通してしか繋がれない、哀しい共犯者になってしまったのだから。
画面の中で、京子さんが妖艶に唇を歪める。
その口元は、音のない世界で、確かにこう告げていた。
(──愛しているわ、私の視線(ペット))

コメント

タイトルとURLをコピーしました