蝉の声が屋敷の石壁に跳ね返り、夏の到来を告げていた。
この季節になると、村の子どもたちは川で遊び、大人たちは収穫前の畑を見守る。どこか朗らかで、しかし緊張の糸を含んだ日々が流れていく。
「リリア、今日は村の教会で子どもたちに読み聞かせをしてくれるそうね」
姉のエミリアが、いつもの優雅な笑みを浮かべながら言った。
「うん。ナタリーに相談して、こっそりお願いしたの」
「本好きのあなたらしいわ」
読み聞かせは、些細な行事かもしれない。でも私にとって、それは大きな試みだった。
──この世界で、誰かの“未来”を照らすために。
村の教会は、白い石造りの小さな建物だった。
祭壇の前に並べられた長椅子の一番前に、子どもたちがちょこんと座っている。その後ろに数人の母親たちと、神父様が目を細めて見守っていた。
私は持参した本を開いた。
それは、かつて祖母が読んでくれた昔話。勇気ある少女と、言葉を持たない竜の物語。
「むかしむかし、星がまだ今よりもずっと近くにあったころ……」
声を落ち着け、丁寧に語り始める。子どもたちは、目を輝かせて聞き入っていた。
一人の小さな男の子が、そっと手を挙げた。
「ねぇ、その女の子は、どうして竜を助けたの?」
私は一瞬、言葉を探した。
──この子は、心のどこかで知っているのだ。
助けるということが、時に恐れを伴うものだということを。
「たぶんね、その子は、竜が“ひとりぼっち”だってわかったからだよ」
「……ひとりぼっち、かわいそうだもんね」
頷いたその目に、ほんの少し、影が差していた。
私はその子を覚えている。北の畑の近くに住む、小作農の息子。病弱な妹がいると聞いていた。
読み聞かせが終わると、母親たちが「ありがとう」と頭を下げてくれた。
「リリアさまの声は、本当に心が静まるようで……」
「いえ、私も、楽しかったです」
私は微笑みながら、教会を後にした。
けれど、あの小さな男の子の目が、ずっと胸に残っていた。
帰りの馬車で、ナタリーが静かに言った。
「お嬢さま……あの子どもたち、嬉しかったと思いますよ」
「うん、でも……なんだかね、あの子の顔が忘れられなくて」
「一緒に何か、できるといいですね」
私は、窓の外に流れる麦畑を見つめた。
──本を読むだけじゃ、届かないものがある。
──でも、本から始まる何かが、きっとある。
その夜、私はこっそり使用人用の厨房へ向かった。ナタリーが内緒で教えてくれた、村に届ける食材の仕分け作業。
「お嬢さま!? いけません、ここは……!」
「ごめんなさい、でもどうしても見ておきたいの。お願い、少しだけでいいから」
若い料理人の娘は困惑しながらも、ナタリーの目配せでうなずいた。
「村に送る分、こうやって計って、箱に詰めるのよ。今年は暑いから、傷まないように早めにね」
彼女の手元を見ながら、私はあることに気づいた。
「これ……全部の村に均等に送ってるの?」
「基本的にはそうですね」
「でも、北の畑の家は……」
私は一つ一つの名前と量を、頭の中で比較していった。資料の中では、北の村の作物収穫率は最も低い。それなのに、配給量は他と同じ。
(バランスがおかしい。これでは、食べ盛りの子たちには足りない)
もちろん、急に制度を変えることなどできない。でも――
私はナタリーに耳打ちした。
「来月分の配送、北の村にだけ少し早く送ってもらえないかな。ほんの少しでいいの。理由は、私のわがままだって言ってくれていいから」
ナタリーは少し驚いたが、静かに微笑んだ。
「わかりました。私の責任にしておきます」
数日後、あの教会で再び子どもたちに会った時、小さな男の子が私の袖を引っ張った。
「おねえちゃん……おかあさんがね、今日はパンがいっぱいあったって、笑ってたよ」
私は、思わず息をのんだ。
「そっか……それは、よかったね」
「またお話、してくれる?」
「うん、もちろん。今度はね、もっと面白いのを持ってくるよ」
その笑顔は、何よりの贈り物だった。
私はまだスキルも使っていない。改造も、操作もしていない。
ただ、少し目を凝らして、耳を傾けて、手を伸ばしただけ。
それだけで、世界はほんの少し、柔らかくなった気がした。